ホストファミリー体験談

 宮城県国際化協会(MIA)様はフレンドシップ・ファミリー・プログラム(FTP)を展開しています。
萩の会も当プログラムに参加し、留学生と県民交流家庭の出会いの場を提供しています。

 県内で学ぶ留学生たちは、国籍、年齢、バックグラウンドなども多様であり、言葉や習慣が異なる日本の生活の中で、戸惑いや苦労も多いことと思います。そんな留学生たちにとって、家族のように日常的にお付き合いいただける交流家庭の存在は、宮城での暮らしをより充実し、安心したものにしてくれるはずです。
 また、お茶の間を通じた国際交流は、肩肘を張らずに異文化を理解する絶好の機会にもなります。

 留学生の希望で学業・研究にいそしむため、遠い海外の各国から日本に興味を持ち日本を選んで一年二年あるいは五年と仙台を選んで来仙します。彼らは親元を遠く離れているため、よくホームシックになります。

 そんな時、そばにそっと寄り添ってくれる日本人がいれば、一生のすばらしい思い出となる事でしょう。日本語も留学を境に沢山興味を持ち、日本人と話す機会を得る努力をしていつの間にか流暢になっていきます。 萩の会の例会以外でも家庭ごとに自由な暖かい交流をしています。

このページではそんな会員のみなさんの体験談を紹介します。

体験談1

スエーデン男子留学生。
彼とであったのは8年前。
工学部修士在学中の交換留学生。

 関わったのは県交流協会からの依頼で1ヶ月半の滞在予定が満了後さらに6ヶ月に延長して自宅で受け入れ6ヶ月。日本の家庭をつぶさにみて日本の習慣や文化を短期間にめまぐるしい日々の中、受け入れていったようでした。日本文化の興味から沢山の日本人の心まで学んだろう靑い目のシャイな留学生でした。

 私の子供に男子がいないため、初めての息子という印象でした。娘達と年が近かったため、そして毎日家に夜7時半ごろ帰宅するため、必然的に留学生というよりは家族の一員として同化していったように思います。 片言の日本語と英和辞書を持って家族としての始まりから離日するまでの間は子供達と親密な関わりを持つようになり、ワインを飲みながらスエーデンの話に盛り上がりました。

 彼の両親も入れ替わり来日し、家に泊まった際にはスペイン料理をごちそうになり話に興じました。私達世代の日本の男子は他の人達に日本のお料理をふるまうという習慣がなかったのでびっくり。おいしいお料理は、そのあと、私の得意料理となりました。
 仙台を離れる時には、涙をさそう別れの場面を持ち、とても残念でした。その後、母国に戻ってから再度仙台に旅行にきたり、スエーデンにも足を運んだりと家族ぐるみの関わりを継続中です。

体験談2

中国出身の女性研究者。
8年前に4年間。
男のお子さんを中国に残しご夫妻で来日。

 私が研究者のホストファミリーを引き受けました。
 熱心に会の活動にご夫妻で参加されて、日本文化を堪能しておったようです。長きにわたり、会に在籍したので会では留学生の中心的存在となって、母国のお料理をふるまったり中国語会話を指導してくれたりしました。長いお付き合いの中で中国の良さを私たち、日本人に沢山教えてくれました。当時、仙台では外国人との接点が少なくできて間もない会の日本人会員からも沢山、家に呼ばれ私以外にも幅広くみんなに可愛がられていたように思います。

 私たちの間柄では、年齢12歳くらいしか違わなかったので、「お母さん」というよりは年の離れた姉妹という感覚であったように思われます。仙台での接点は頻繁にお互いの家庭を行ったり来たり。期間の中で私自身の不注意から右足にヒビが入って片足が松葉杖のギブスだった時は、忘れもしませんが3ヶ月間の間、週に3回必ず夕食を作りに通ってきてくれました。
 その当時、急な坂道を自転車で汗を流しながら通ってきてくれたのを思い出します。日本人が、とっくの昔に忘れてしまった真心というか中国人の心意気を感じ取って、とても、とても家族みんなで感謝したものです。とても助けられました。

 今は北京に戻って持ち前の教える事の得意さで北京大学の教授となり、ご主人ともども、活躍をされています。彼女とは訪ねる機会を設け、一緒に沢山ある中国の世界遺産を巡る旅を計画中です。

体験談3

台湾出身の女子留学生。
修士取得のために来日。
4年前から2年にわたって交流。

 初めて彼女をみたとき大学卒業のお嬢さんでしたが純真無垢なまるで高校卒業したばかりのお嬢さんのような印象でした。大学で日本語を学んできたようで、とても会話も堪能でした。

 博士課程を習得するべく、夜は授業が終わってから自転車に乗ってケーキ屋さんでアルバイト。聞けば、日本の最低賃金よりさらに安いアルバイトをしていました。留学生だから足元をみているのかしらと思うくらい、日本人として恥ずかしい思いをしました。その当時は私が憤慨する状境でした。彼女は高物価の日本でのくらしに自分でできる努力をしていたようです。

 その後、夜遅くなって帰宅するのは危ないと思いまた安すぎるアルバイトも止めさせ、彼女の能力にあったデスクワークを主人から紹介してもらい、家も別棟の一角を空け、離日するまで家族の一人として迎入れました。

 現在は、某大学に勤務。日本と台湾の学生の橋渡しをしながら、まさしく交際交流を地でいく仕事をしています。離日してから、メールのやり取りをしながら台湾に出かけ、まだ訪れていない場所をこれから一緒にまわりたいものです。

体験談4

インド出身の博士取得のため来日した男子留学生。

 1年間のかかわりでした。彼の第一印象はインドの人は日光を沢山あびているので黒いという先入観を覆すくらいに白い体の大きくない男の子という印象でした。お母さんを小さい頃に亡くし育ったようでした。

 彼は最初は全く日本語のできない留学生でした。その当時はベトナムの男子留学生を2年前に 受け入れていたので、英会話に関しては、私ができなくても不自由する事がなく、通訳してもらいながら3人で仲良く交流を続ける事が出来ました。二人と長女と同じ年齢ということもあり、よく一緒に家に呼んでホームパーティーに会の他の沢山の留学生も呼んで交えて仲良くなってもらい更に私とは親しい関わりになっていきました。

 しかし、夏ごろ、研究所の教授と1年間努力して勉強してきたけれど、どうしてもソリが合わず心のキズになる前にデンマークの大学の研究所に人り直すという、苦心の選択を取り離日。その研究所は、彼だけではなく、かつても同じようなことが何回かあったとのこと。彼に聞いた話だと学内にはたまに、そういう教授もいるとの事でした。受け入れるということは、ひっくるめて人間関係も良く構築していく役目が研究所の教授にはあるような気がしてなりません。人間関係によって研究の道を断たれることは日本人として、とても悲しい出来事でした。研究といえども、交流といえども同じ立場のような気がして、彼の離日はとても残念でした。

 時が過ぎ、デンマークで博士課程を修了。フィンランドに移りその後結婚。
 会の10周年終了後海外、国内から出席してくれた元留学生達7人で、秋保温泉に泊まりに行った時の朝、偶然にからTELがはいりました。久々にインドの留学生とわかり、挨拶。息子が生まれた知らせでした。彼そっくりの英会話のできる元ベトナムの留学生と替わってもらい現状の報告などの交換。その後、8力月後にスエーデンフィンランドを訪問。一週間娘達とお世話になり彼の奥さんのインド料理を味わってきました。交流は、続行中です。

体験談5

ベトナムハノイ出身の女子留学生。
3年間関わりました。
現在、ホーチミン在住。

 日本には、修士課程を取得する為に来日。第一印象は誠実で可愛いお嬢さん、という印象でした。留学するのに物価高の日本へ来日するため、ご両親が持参していた土地を売り、工面して修士に入学してきたこと。

 日本語はあらかじめベトナムで勉強。読み書き会話ととても上手な日本語でびっくり。ちゃんと将来のビジョンを持って、アルバイトを少ししながら勉強に勤しみ、努力していたようです。
 萩の会は、毎月かかさず出席し会の留学生会員とも日木の文化を共有しながら、沢山留学生同士でもとても親しくなっていたようです。もちろん、私の子供達とも、同じ女の子なので皆と仲良くしていました。私が置かれている立場で許す限り、別棟に住んでもらうことになりました。
彼女の研究室が川内キャンパスでしたので、帰りは寄って日本茶と日本の“つけもの”でお茶を飲んで話をして戻っていくパターンでした。

 特に長女と次女とは年も近いせいか仲がとてもよく彼女の結婚式に親子で出席。仙台で知り合った、外科医と結婚しそれ以降、彼とも、その彼のご家族とも親しい関わりあいを続行中です。今年の3月初めには第一子の女の子誕生に幸せを祈るばかりです。

体験談6

ベトナムからの男子留学生、ハノイ出身。
6年前にホストファミリーを4年間引き受けました„
ベトナムで大学の先生をしてきたという留学生。

 その当時の少し幼かった顔を時々思い出します。日本語がほとんど分からなく、仙台にきてから日本語を少しずつ学んでいったようです。理学部博士課程に在籍していたので、研究室の建物と私の家とは35Omの近距離にあったせいで、しょっちゅう夕食時には呼んで家族と共に食事をしながら食事が終わるとまた研究室に戻るという具合に日本食に慣れていったようです。
 私の長女と次女達、三女と同じ年齢だったため、子供達とはとても仲良くなり私をお母さんと呼びさらに親密な 関わり合いが構築されていったようです。

 彼を通して多くのベトナム人留学生とも知り合い、その友人とも車に乗れるだけ乗せて様々な場所へと出かけ、真夜中の運転で秋田や岩手から帰宅することもたびたびありました。
 交友は多い時で週1回の割合で育みました。彼の友人からはおばさんと呼ばれ彼の周りには、いつもいつも友人が沢山集まりました。

 その彼も今年2月にとても美しい12歳下のお嬢さんと結婚。ベトナムに招かれて家での結婚式とパーティーに娘と元萩の会メンバーと臨んできました。彼の家に着いたとたん、彼の沢山の親族の皆さんから一人一人を紹介され、大歓迎を受け至福の時を過ごしてきました。
 もちろん、仙台で知り合った彼の東北大出身の元留学生達もパーティーにはたくさん来ており、何度も何度も“トンペイ”(乾杯)の音頭で15人留学生の人たちで、その一角は大変盛り上がり、素晴らしい結婚式を体験してきました。

 思えば、彼を通して多くのベトナム人留学生と知り合ったのが私の財産でもありました。
 この紙面を備り、ベトナム空港についた時より離れるまでの8日間、沢山の彼の友人達がベトナムで居た入れ替わり立ち代りお世話してくれた事に感謝。彼らたちの成功を願い有難さを享受できた事に心豊かになり仙台に戻ってきました。縁〔えん〕の素晴らしさに乾杯。

体験談7

韓国からの男子留学生。
関わって2年目。

 彼の心象はどこからみても日本人より日本人らしい学生。物の考え方や行動、好み等、そして会話も全く日本人です。とても、きれいな発音。実に素晴らしい。伺えば、お父様の同大学博士課程を修了、現在、母国で教授をしているとのこと。やはり血筋かなと思われます。

 会では人なつっこさも相まって年上の会員のおばさん達、皆さんからとても可愛がられています。日本人対象のハングル語講座では先生として活躍。私を含めて、会員の指導をしてもらっています。離仙するまで沢山関わり仙台の思い出としての萩の会を思い出してもらえばうれしいかなと思っています。

体験談8

韓国からの女子留学生、プサン出身。
9年前にホストファミリーを1年間引き受けました。

 萩の会設立して2年目のこと。日本を選んでの交換留学という事は鑑みれば前もって日本語を学び日本の文化に興味を持って来日したようでした。とても日本語が上手で日本人らしい韓国人のお嬢さんという印象でした。
 月一例会での1年間の日本文化体験の他、仙台の私の実家の町内でのお祭りや県内あちこちと出かけていったり他県のイベント、スキー等、月2.3回のペースで会い交流をしてきました。

 彼女は留学離仙後、アメリカの大学院修士•博士を修得。1年前、韓国に戻って就職。10年後の去年ソウルで対面。長い時間を経てすっかり綺麗なお嬢さんになって再会をいたしました。
 韓国に戻ってから実母の逝去を乗り越え、昨年、韓国一の企業の研究職に就職。それから、まもなく彼女はその系列会社の御曹司と結婚。私が結婚式に出席して初めて韓国一の企業だったのがわかり、式当日にびっくり。そして、その結婚式で見た彼女の幸せいっぱいの姿を見て日本人の感覚を持つひかえめなお嬢さんは、やはり見初められるのも早いのかなという感慨でした。

 これからソウルに行く事がある度、会って日本のお母さんという立場で見守り交友をあたためたいものです。

体験談9

韓国からの女子留学生
1年の交流
現在韓国で学生生活を送っています

 私にとって初めての留学生との交流。萩の会に入って間もないこともあり、正直お世話できるか心配でした。先輩の方々にお聞きしながら自分の子供だったらという思いの一年でした。11月の対面式で彼女と会いました。

 しっかりした日本語で礼儀正しいかわいいお嬢さんでした。何を話したらと考えていましたら彼女から「日本では成人式に着る着物は早くから予約するんだそうですね」と尋ねられました。よく聞くと着物を着て日本の成人式に出席したいとのことでした。我が家の二人の着物がありましたので、それで良ければということで、会の韓国の女の子と二人で願いどおり成人式に出席することができました。式が終わってから近くの神社に行き、我が家でささやかなお祝いを致しました。初めての着物にかなり疲れたようで帯をほどいた時の二人のほっとした様子に思わず笑ってしまいました。

 彼女は萩の会の行事に真面目に参加し、お茶の教室にも積極的でした。このように日本の文化に興味を持ち、いろんなことを学んでいきました。逆に私も韓国の文化、考え方などを彼女を通して学びました。とても新鮮なことでした。

 昨年の9月彼女は帰国しましたが、その少し前から竹島問題で日韓関係が良くない頃でした。お母さんも外に出ないようにと言われたそうです。日本では考えられないことでしたが、ご両親は心配だったでしょう。帰る時、お母様宛に手紙を書きました。お嬢さんの様子やこのご縁を大切にしたい気持ちなどを。このことはとても感激されたようです。私もありがたかったです。こういう交流の機会がなければ、これほど他の国の事を考えたでしょうか。